2006年 12月 18日
神経科医オリバー・サックスの著作はどれも面白い。彼の類稀な観察力や洞察力、そして情熱的ともいえる記述による数々の著作が人々を魅了する。代表作『レナードの朝』は映画化されたこともありご存知の方も多いのではないだろうか。
『妻を帽子とまちがえた男』は24の短編であることもあり、読み易い。そして、読んでいるうちにサックスの世界に引き込まれていく。短編小説でも読んでいるかのように思えてくるが、全て実話である。
題材が同じでも、サックス以外の人が書いていたらこの本は単なる24の症例集に仕上がっていただろう。それはサックスがの視点が症状だけでなく、患者に向けられているからである。それがどのようなものか。冒頭に書かれた著者の言葉から読み取れる。
病歴を記すとき、「三染色体をもつ二十一歳の女性」などと書く。これでサブジェクト(主体)にふれたつもりでいたならそれは考え違いで、こんな書き方ならネズミいついても同じように書けるはず、人間として扱ったものとは言えない。このような視点から高度な神経学や心理学においては、「アイデンティティーの神経学」とでもいった新しい方法が必要だという。
人間を-悩み、苦しみ、たたかう人間をこそ中心に据えなければならないのであって、そのためにわれわれは、病歴を一段と掘り下げ、一人の患者の物語とする必要がある。そうしてこそ初めて、「何が?」だけでなく「誰が?」ということにをわれわれは知る。病気とつきあい、医者とつきあっている生身の人間、現実の患者個人というものを、目の前にするのである。
訳語のせいもあって、少々理解しにくい。要するに、症状と患者両方を見て初めて神経学的な考察ができるのだ。とでも言うべきだろうか。本書に記されているのは24人の症状であり、それと向き合う患者の物語である。
具体的に、失語症患者を扱った「大統領の演説」を簡単に説明してみる。
失語症病棟でレーガン大統領のテレビ演説を見ながら、患者たちが大笑いをしている。言葉の理解が出来ないためなんとも奇妙な光景なのだが、それは健常者では解らない大統領の饒舌や偽りが伝わっていたからだった。
失語症患者たちは言葉そのものは理解できないが、声の抑揚や調子など「情感的調子(フィーリング・トーン)」を感じ取る力は失われておらず、むしろ敏感になることさえあるという。
このようにして、巧妙な言葉づかいや声の調子にだまされなかったのは、脳に障害を持った人たちだったというパラドックスが大統領の演説で見られたのだった。
このようにある能力が損なわれたとしても、その能力によって隠されていたほかの能力が卓越する場合がある。また、ある症状により患者の生活に支障を来たす場合であっても、患者は自分のアイデンティティーを保とうと反応する。このように症状は患者から切り離して考えることはできず、両者に対する洞察が必要であることを説いたのが先に述べた「アイデンティティーの神経学」だと思う。
症状は抽象化された概念として定型的なものといえる。それはある疾患を特徴付けるものであり、その診断・治療を決める上で重要な手がかりとなるものである。しかし、その症状を抱え、生きる患者の姿は非定型的である。そのため、もっぱら「治せば良い」とする医療にあってはこのような患者独自の姿は軽視される。
この著作の中で描かれているのはまさにこのような患者が主役の「物語」である。
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by heba_nonbo
| 2006-12-18 09:44
| 書評