2006年 05月 28日
病棟での生活
|
翌日ICUから一般病棟へ移された。私のベッドは6人部屋の窓側。頭痛は既に消えており、病状は落ち着いていたが依然として字が読めなかった。
病棟での生活は快適なものだった。
カーテンを挟んで隣の患者さんがおり、寝息が聞こえ、食事は美味いものではない。生活のほとんどが管理されていた。
しかし、そこに束縛を感じることはなかった。
1日18時間勉強し、自分のことで精一杯だった日常を過ごし、受験失敗のやり場の無さを感じ、休息を求めて実家に帰っても親父と喧嘩して3日で戻る。こんな生活を2年間続けてきたせいだろうか。非日常的な病室という空間で、日常的な快適さを感じていた。
或は、自分のことを全て人に委ねることができたからかもしれない。受験からの開放感からかも知れない。病棟生活には、心の安らぎがあった。少なくとも表面的には・・・。
傍らでは母が付き添ってくれていた。私が入院している間毎日定刻に来ては、面会時間が終わるまでずっと付いていてくれた。母はパートを止めて、私が退院するまで私のアパートから病院に通う毎日を過ごしていた。
そんな「快適な病棟生活」の中で、「自分で気づけない不安」が時折顔を出すことがあった。ちょっとした事でイライラし、母にあたる。何を言っても切れることの無い絆を持った相手だからだろうか。毎日傍らにいたからだろうか。一番感謝しなければならない人に自分の「イライラ」をぶつけていた。どんなに私が酷いことを言っても全て受け入れ、この母の「毎日の日課」は退院するまでの4週間、続いた。
感謝の気持ちとはその時感じることができないのだろう。後になって想い返ってみて改めて母の偉大さを実感している。
病棟での生活は快適なものだった。
カーテンを挟んで隣の患者さんがおり、寝息が聞こえ、食事は美味いものではない。生活のほとんどが管理されていた。
しかし、そこに束縛を感じることはなかった。
1日18時間勉強し、自分のことで精一杯だった日常を過ごし、受験失敗のやり場の無さを感じ、休息を求めて実家に帰っても親父と喧嘩して3日で戻る。こんな生活を2年間続けてきたせいだろうか。非日常的な病室という空間で、日常的な快適さを感じていた。
或は、自分のことを全て人に委ねることができたからかもしれない。受験からの開放感からかも知れない。病棟生活には、心の安らぎがあった。少なくとも表面的には・・・。
傍らでは母が付き添ってくれていた。私が入院している間毎日定刻に来ては、面会時間が終わるまでずっと付いていてくれた。母はパートを止めて、私が退院するまで私のアパートから病院に通う毎日を過ごしていた。
そんな「快適な病棟生活」の中で、「自分で気づけない不安」が時折顔を出すことがあった。ちょっとした事でイライラし、母にあたる。何を言っても切れることの無い絆を持った相手だからだろうか。毎日傍らにいたからだろうか。一番感謝しなければならない人に自分の「イライラ」をぶつけていた。どんなに私が酷いことを言っても全て受け入れ、この母の「毎日の日課」は退院するまでの4週間、続いた。
感謝の気持ちとはその時感じることができないのだろう。後になって想い返ってみて改めて母の偉大さを実感している。
by heba_nonbo
| 2006-05-28 00:36
| 私の闘病記