2006年 06月 08日
退院後
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後遺症を抱えたまま、退院した。
病院からでるときは、本当に出て行っていいのだろうか。と、何か物足りないような気持ちだった。この時、頭は坊主狩り、字は読めない、痙攣の可能性。いろんな物を背負っていたせいか、足取りは重かった。帽子をかぶって、久々に乗る電車の中では何か自分が悪い事でもしたのではないか、というようなネガティブな気持ちでいた。今思えば、不安を抱えていたのだと思う。
しかし、その3日後には既に受験勉強を始めていた。字を読むのは、難儀な作業だった。読むスピードをどうしても以前と比べてしまう。明らかに、遅い。でも、そんな事を言っている時間は無かった。一年かけて、字を読むスピードを、以前レベルまで治す。でないと、受からない。
障害を持っていなかったときでさえ、医学部は狭き門。この春には9割とって落ちていた*。
退院直後で読むスピードは以前の4割程度。それでも回復は早い方だった。「日常生活に困らない程度」まで治るのに、良くて3年と当初は医師に伝えられていた。術後3週間。既にそのレベルまで回復していた。なんでこんなに回復が早かったのかは謎。脳の機能がある程度保存されていたのかもしれないし、普通の人とは違う読み方をしていたのかもしれない(こちらを参照)。
いずれにしても、回復は早かったが、満足出来るレベルにはまだまだ程遠い所にいた。
退院後2ヶ月ほど経ってからのこと。突然文字が読めなくなった。予備校にいた時の事。「慶応」という普通はだれでも読める文字が、突然読めなくなった。すると、気が付くと周囲の文字ほとんど全てが読めなくなっていた。頭は痛くないが、出血した時と全く同じ症状。
「失読症が再発?なぜ?やばい!!」 そう思い、医師と連絡を取った上で病院へ。一人では危険だからと、友達に連れてきてもらうように指示された。再出血が疑われたのだろう。
病院につくと、点滴をうけて安静にしていろ、とのこと。ベッドの上では安堵していた。救われたという思いとは違う。
「このまま、このベッドの上にずっと寝ていられたらどんなに楽か」と思っていた。病室のベッドを想い出させる安心感がそこにはあった。
平気な顔して強がっていたのか、考える余裕が無かったのか。不安は日常では顔を出さなかった。今でも、何らかの形で不安は残っている。再出血の危険性が小さく、痙攣も起こっていない。字は書けるし、読める。読みのスピードも以前の8割程度まで回復している。不安に思うことなど一つも無いはず。それでも、不安は消えていないように思う。人間の手の及ばない事があるという事をを受け入れるのを拒否してきたためなのか、他ならぬ自分のアイデンティティーを保とうとする、実存上の問題なのか。
このような不安は少しでも命の危険に曝されたり、何らかの生活制限が強いられた人にとりわけ多く見られる気がする。これが患者の姿なのだと私は思う。
結局再出血は起こっていなかった。失読が再び現れた事の理由は聞かなかったが、抗痙攣剤を変えてみようと伝えられた。バルプロ酸を服薬していたが、代わってフェニトインを服薬することになった。「薬の血中濃度を一定に保てるように、自己管理できるように」とも併せて伝えられた。
これ以降、現在に至るまで、失読症が現れた事は一度も無かった。失読はてんかんの症状だったのかもしれない。
*この年の医学部合格ラインは、センター試験で9割2分程。教育プログラムの違いから、新課程と旧課程の入れ替わりの時期だった。旧課程受験者と新課程受験者の間でその平均点に大きく差がでて、社会問題にまでなった。特に数学Ⅱ(旧)と数学ⅡB(新)との平均点差は医学部受験者において、百点満点中35~40点ほど。
病院からでるときは、本当に出て行っていいのだろうか。と、何か物足りないような気持ちだった。この時、頭は坊主狩り、字は読めない、痙攣の可能性。いろんな物を背負っていたせいか、足取りは重かった。帽子をかぶって、久々に乗る電車の中では何か自分が悪い事でもしたのではないか、というようなネガティブな気持ちでいた。今思えば、不安を抱えていたのだと思う。
しかし、その3日後には既に受験勉強を始めていた。字を読むのは、難儀な作業だった。読むスピードをどうしても以前と比べてしまう。明らかに、遅い。でも、そんな事を言っている時間は無かった。一年かけて、字を読むスピードを、以前レベルまで治す。でないと、受からない。
障害を持っていなかったときでさえ、医学部は狭き門。この春には9割とって落ちていた*。
退院直後で読むスピードは以前の4割程度。それでも回復は早い方だった。「日常生活に困らない程度」まで治るのに、良くて3年と当初は医師に伝えられていた。術後3週間。既にそのレベルまで回復していた。なんでこんなに回復が早かったのかは謎。脳の機能がある程度保存されていたのかもしれないし、普通の人とは違う読み方をしていたのかもしれない(こちらを参照)。
いずれにしても、回復は早かったが、満足出来るレベルにはまだまだ程遠い所にいた。
退院後2ヶ月ほど経ってからのこと。突然文字が読めなくなった。予備校にいた時の事。「慶応」という普通はだれでも読める文字が、突然読めなくなった。すると、気が付くと周囲の文字ほとんど全てが読めなくなっていた。頭は痛くないが、出血した時と全く同じ症状。
「失読症が再発?なぜ?やばい!!」 そう思い、医師と連絡を取った上で病院へ。一人では危険だからと、友達に連れてきてもらうように指示された。再出血が疑われたのだろう。
病院につくと、点滴をうけて安静にしていろ、とのこと。ベッドの上では安堵していた。救われたという思いとは違う。
「このまま、このベッドの上にずっと寝ていられたらどんなに楽か」と思っていた。病室のベッドを想い出させる安心感がそこにはあった。
平気な顔して強がっていたのか、考える余裕が無かったのか。不安は日常では顔を出さなかった。今でも、何らかの形で不安は残っている。再出血の危険性が小さく、痙攣も起こっていない。字は書けるし、読める。読みのスピードも以前の8割程度まで回復している。不安に思うことなど一つも無いはず。それでも、不安は消えていないように思う。人間の手の及ばない事があるという事をを受け入れるのを拒否してきたためなのか、他ならぬ自分のアイデンティティーを保とうとする、実存上の問題なのか。
このような不安は少しでも命の危険に曝されたり、何らかの生活制限が強いられた人にとりわけ多く見られる気がする。これが患者の姿なのだと私は思う。
結局再出血は起こっていなかった。失読が再び現れた事の理由は聞かなかったが、抗痙攣剤を変えてみようと伝えられた。バルプロ酸を服薬していたが、代わってフェニトインを服薬することになった。「薬の血中濃度を一定に保てるように、自己管理できるように」とも併せて伝えられた。
これ以降、現在に至るまで、失読症が現れた事は一度も無かった。失読はてんかんの症状だったのかもしれない。
*この年の医学部合格ラインは、センター試験で9割2分程。教育プログラムの違いから、新課程と旧課程の入れ替わりの時期だった。旧課程受験者と新課程受験者の間でその平均点に大きく差がでて、社会問題にまでなった。特に数学Ⅱ(旧)と数学ⅡB(新)との平均点差は医学部受験者において、百点満点中35~40点ほど。
by heba_nonbo
| 2006-06-08 22:43
| 私の闘病記