2006年 07月 07日
孟母三遷の教え
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「親父が医者でもないのに、なんで医者になりたいんだ。無理すんな。」
って、言われ続けてきた。そのたびに、「知らねーよ、諦めるまで放っておけ。」って、答えてきた。
これは、受験期の「最も面倒くさい質問ワースト3」の1つ。頼んでもいないのに、聞いてくる。親父が医者でないのが悪いのか。
聞いてくるのは決まって干渉したいため。「あと2年だな」とか、人のする事を勝手に決めたオッサンもいた(怒)。
それで、この質問に対して今までまともに答えた事がない。自分が手術してからは、答えが明確になった。”ある医者の力で命を拾ったから。”でも、病気する以前から、医者になりたかった。なぜ?
私が幼児の時に、なりたかった職業は、「大工」。当時、実家を改築しており、タオルを頭に巻いて、作業着を着てる姿が格好良かった。「かっけぇ」って連発していたらしい。
けど、その後、幼稚園に野球選手が来た。トスバッティングさせてくれた。背がでかかった。野球は巨人以外に興味が無かったけど、選手は格好良かった。それで、大工はすっかり忘れて、将来の夢は「野球の選手」に変わった。「野球の選手、かっけぇー」って言っていたらしい。けど、これも裏切って、小学校ではサッカーをしていた。
でも、一番格好良かったのが、医者だった。それは、病院に担ぎ込まれる事が多かったためだと思う。1歳でストーブを叩いて火傷し、皮膚の自家移植をした。
その後は、牛乳瓶を持ったまま転んで手を切る。砂利道で転んで手掌を切る。友達の家の窓に頭から突っ込んで、額を切る、チャリでレースして、電柱に突っ込む。・・など、よく病院に担ぎ込まれていた。
他には溶血性連鎖球菌感染、手足口病、など小児に特徴的な疾患で小児科にかかった。
可愛かった頃のノンボの純粋な眼差しには、頻繁に会う医師の姿が格別に「かっけぇー」かったらしい。
高校入学時に「何になりたいか?」と聞かれて、初めて「医者」と答えた。
「じゃあ、勉強しろ。」と担任に言われて、「嫌。」と答えた。この頃はまだ、「なる」と決めたわけではなかった。
しかし、高校2年の時、祖父が亡くなった。
祖父は、いろんな脳疾患を患った人で、始めに脳溢血。次に、アルツハイマー病。さらに、パーキンソン病。最後は乳癌を患った。
死因が何であったのかは、未だによく分からない。しかし、死に際の祖父の姿は一生忘れられない。
危篤を聞きつけて私が駆けつけた時、祖父はベッドの上で弱々しい体で、一生懸命息をして*いた。
しかし、最後に大きく息を吸い込んで、息を引き取った。
臨終を宣言されると、祖母が、祖父の額に軽くキスをした。たぶん、「ご苦労様」という意味。
この、祖父と祖母の姿を見て、初めて『命』に対して考えるようになった。
この出来事が、その後の私の進路を決めたのだと思う。
その後、時間を置いたが、勉強を始めた。卒業まで半年も無かったが、決めた後は走るだけ。
この頃に、学部を聞かれて「医学部」と答えて、先に述べた質問攻めにあった。
こういった「生い立ち」が、私を医学へと駆り立てたのだと思う。
幼少では価値観がころころ変わるもの。しかし、心の奥底では変えられないものが次第に育つもの。それを思春期に悩み、青年期に価値観が形成される。この「価値観の形成」を決めるのが自分が育った環境である。こんなことは「孟子」の時代から言われている事。「なんで医学部に」、と聞かれたら、「今までの人生がそうしろと決めた」と答えるより他にない。
最近は「なんで脳外?」が増えてきた・・・。
ちなみに、脳外は今年「研修医に最も不人気な診療科」になった。
って、言われ続けてきた。そのたびに、「知らねーよ、諦めるまで放っておけ。」って、答えてきた。
これは、受験期の「最も面倒くさい質問ワースト3」の1つ。頼んでもいないのに、聞いてくる。親父が医者でないのが悪いのか。
聞いてくるのは決まって干渉したいため。「あと2年だな」とか、人のする事を勝手に決めたオッサンもいた(怒)。
それで、この質問に対して今までまともに答えた事がない。自分が手術してからは、答えが明確になった。”ある医者の力で命を拾ったから。”でも、病気する以前から、医者になりたかった。なぜ?
私が幼児の時に、なりたかった職業は、「大工」。当時、実家を改築しており、タオルを頭に巻いて、作業着を着てる姿が格好良かった。「かっけぇ」って連発していたらしい。
けど、その後、幼稚園に野球選手が来た。トスバッティングさせてくれた。背がでかかった。野球は巨人以外に興味が無かったけど、選手は格好良かった。それで、大工はすっかり忘れて、将来の夢は「野球の選手」に変わった。「野球の選手、かっけぇー」って言っていたらしい。けど、これも裏切って、小学校ではサッカーをしていた。
でも、一番格好良かったのが、医者だった。それは、病院に担ぎ込まれる事が多かったためだと思う。1歳でストーブを叩いて火傷し、皮膚の自家移植をした。
その後は、牛乳瓶を持ったまま転んで手を切る。砂利道で転んで手掌を切る。友達の家の窓に頭から突っ込んで、額を切る、チャリでレースして、電柱に突っ込む。・・など、よく病院に担ぎ込まれていた。
他には溶血性連鎖球菌感染、手足口病、など小児に特徴的な疾患で小児科にかかった。
可愛かった頃のノンボの純粋な眼差しには、頻繁に会う医師の姿が格別に「かっけぇー」かったらしい。
高校入学時に「何になりたいか?」と聞かれて、初めて「医者」と答えた。
「じゃあ、勉強しろ。」と担任に言われて、「嫌。」と答えた。この頃はまだ、「なる」と決めたわけではなかった。
しかし、高校2年の時、祖父が亡くなった。
祖父は、いろんな脳疾患を患った人で、始めに脳溢血。次に、アルツハイマー病。さらに、パーキンソン病。最後は乳癌を患った。
死因が何であったのかは、未だによく分からない。しかし、死に際の祖父の姿は一生忘れられない。
危篤を聞きつけて私が駆けつけた時、祖父はベッドの上で弱々しい体で、一生懸命息をして*いた。
しかし、最後に大きく息を吸い込んで、息を引き取った。
臨終を宣言されると、祖母が、祖父の額に軽くキスをした。たぶん、「ご苦労様」という意味。
この、祖父と祖母の姿を見て、初めて『命』に対して考えるようになった。
この出来事が、その後の私の進路を決めたのだと思う。
その後、時間を置いたが、勉強を始めた。卒業まで半年も無かったが、決めた後は走るだけ。
この頃に、学部を聞かれて「医学部」と答えて、先に述べた質問攻めにあった。
こういった「生い立ち」が、私を医学へと駆り立てたのだと思う。
幼少では価値観がころころ変わるもの。しかし、心の奥底では変えられないものが次第に育つもの。それを思春期に悩み、青年期に価値観が形成される。この「価値観の形成」を決めるのが自分が育った環境である。こんなことは「孟子」の時代から言われている事。「なんで医学部に」、と聞かれたら、「今までの人生がそうしろと決めた」と答えるより他にない。
最近は「なんで脳外?」が増えてきた・・・。
ちなみに、脳外は今年「研修医に最も不人気な診療科」になった。
by heba_nonbo
| 2006-07-07 01:50
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